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大将の大阪・京都散歩の記 そのⅢ 2015年10月29日(木)



大将の大阪・京都散歩の最終回です。
とっても文章が長いので(^_^;)
ご興味ある方は是非
お付き合い下さいませm(__)m


〖 10月29日(木)の日記 〗

若手社員の中に私と同じ歴史好きがいて、
特に昭和期の陸軍の動向に専らの興味があるという強者です。
彼女が好きな詩人三好達治が在籍した大阪陸軍地方幼年学校の跡地が
今どうなっているか観に行くというので、
面白そうなので同行してみました。
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南海電鉄で最寄駅まで来てみたら何ともう高野山が目前。
跡地には国立病院と高校がありました。
幼年学校当時は周囲に何もない辺鄙なところであったのが想像できます。
バス停で会った地元の老婦人に訪ねてみたところ、
幼年学校施設は戦後GHQに接収されることなく、そのまま病院になったそうです。
京都に移動します。
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《妙覚寺》
1582年(天正10年)6月2日、織田信長の嫡子信忠は
宿舎としていたここ妙覚寺で父信長急襲さるの報を受けました。
包囲される前にここを脱出、安土城に入る選択をせず、
二条新御所に移動して明智勢を迎え、
奮闘むなしく父の後を追うように討ち死にしました。

私はこの出来事を扱った文章やドラマに接した時、
妙覚寺から移動する信忠の胸中に去来したであろう思いを考えずにいられません。
明智勢の勇猛さと光秀の能力から、父信長が討たれるであろうことは疑い難く、
また仮に二条新御所に入れたとして自分に降りかかる過酷な運命については受け入れること。
ここまでは戦国の世で上位にある者の覚悟としては普通のことでしょう。

しかしながら移動の間信忠の胸中にあった思いはむしろ、
万が一自分が光秀によって討たれなかった時のことではなかったかと。
確かにここに至るまで、中国攻めから甲州攻めの間
父信長に代わり織田家中の諸将を率いてきた。
自分も納得できる結果を出したし、父も満足そうだった。
しかしそれを可能としたのは偉大なカリスマ信長あっての事ではなかったか。

美濃・尾張120万石は担いで来られたが、
果たして自分に日本の半分を担ぐ器量があるのか。
長篠における勝頼の悲劇は信玄既に没していたが故ではなかったか・・・。
死する覚悟以上の重圧の下、馬を走らせていた事でしょう。
果たせるかな信忠26歳の死でした。

大友皇子、平重盛、足利義持等々、
傑出した父を持った子の運命は一様に尋常ならざるものがありますね。

本堂は修理中で全面に保護シートで覆われ、見る事はできませんでした。
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《小川通りにて》

妙覚寺から二条城までの間、小川通りを歩いてみたら、
この道は茶の湯をめぐる旅人にとっても重要地でもありました。
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小川通りの雰囲気が伝わるでしょうか?京都らしい佇まいですね?
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茶室でしょうか、不審庵の手前にありました。
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《表千家不審庵》
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《百々橋の礎石》

小川通りは埋め立てられる前までは文字通りの小川で、
かつてはここには長さ7mほどの「百々橋」が懸けられていました。
28日の記事で紹介した相国寺の戦と同じ頃、
東西両軍が睨み合った激戦地です。
取り壊された橋の礎石の一つがここに残されています。
丸い不定形の石がそれです。
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《室町小学校》

室町幕府の正庁「花の御所」跡地の一部にあります。
百々橋の礎石が保存されているそうです。
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《二条城》

今回最も歩いてみたかったのが妙覚寺から二条城まででしたが、
前の文でその理由はわかっていただけると思います。
二条新御所跡の碑が小さいためか見つけられなかったので、二条城はその代わりです。
今日の散歩ではここで初めて多くの観光客と一緒になりました。
遠景は比叡山です。
拝観料\600也の上に内部写真撮影禁止に納得いく説明もなく、
憤慨しながら早々に辞去、地下鉄にて竹田に移動。
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地下鉄竹田駅を下車、鳥羽地区を歩きました。


《鳥羽田中殿跡》

1156年(保元元年)7月9日夜、
崇徳上皇は突然院所としていたここを脱出、洛東白河北殿に移動しました。
「上皇左府(=藤原頼長)同心発軍~」との噂が本当のこととなり、
7月11日未明、平清盛・源義朝・源義康(足利氏の祖)を主力とする
後白河方の夜襲をもって合戦の火ぶたが切られました。

ご存じの通り、結果は清盛軍を主力とする後白河側の勝利に終わりましたが、
3年後の平治の乱と共に、
武士の武力なしに政治を動かすことができなくなったことを端的に示す事件です。

事実平氏政権が誕生し事後700年に渡る武士の世は
ここから始まったとも言えるかもしれません。

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《鳥羽・伏見の戦碑》

1868年(慶応4年)1月3日、
小枝橋東で鳥羽街道を護る薩摩藩兵と幕府軍との間で先端が開かれ、
ほぼ同時に始まった伏見での戦闘と合わせて、
ここに1869年4月の函館戦争まで続く戊辰戦争の火ぶたが切って落とされたわけです。
戊辰戦争で武士の世が終わったとするならば、
ここ鳥羽の地は武士の時代の開始と終了双方の号砲の地となったわけです。

単なる偶然でしょうが、歴史には偶然とは思えない事が多々おこるもので、これはその一つ。
鳥羽訪問で日没、帰路につきました。
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《小枝橋跡地》

坂の向こうは桂川の土手です。
ガードレールの脇に戦跡を示す石碑がありました。
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皆様これにて今回の大阪・京散歩の筆を置きたいと思います。
長々と御付き合いくださり、有難う御座いました。





by kaorunchoko | 2015-11-23 20:48 | 大将 | Trackback | Comments(6)

大将の大阪・京都散歩の記 そのⅡ 2015年10月28日(水)



さて、先日の大将のブログの続きだニャ(=^・^=)
本日もお付き合い下さいニャ by.ちょこ



10月28日(水) 続き


さて、ここからが今回の関西散歩の本来目的です。

大阪と京都の境に位置する山崎は、古より交通の要衝であります。
北は天王山、南は桂川・宇治川・淀川(木津川)の
3河川の合流点に挟まれた狭隘の地形です。

今から433年前、1582年(天正10年)本能寺の変の後、
備中高松城攻めから急慮播磨に進出した秀吉軍と
これを迎える明智光秀軍との決戦、
「山崎の戦」が行われたのがこの地です。

私がここを訪れたかった理由は、
数の上で劣勢の明智軍がここを破られたら
京まで遮る方法がないここ山崎の地でなぜ決戦に臨んだのか。

なぜ戦いの名称が「天王山の戦」から
「山崎の戦」へと変えられたのか。
なぜ・・・・合戦の行われた現場を見ることは
その疑問の解答のヒントを与えてくれると考えていました。

敗戦の決定的ポイントが、戦場の北に位置する天王山を
一早く秀吉軍に抑えられたからといわれていますので、
兎に角現地を見てみることにしたのです。

因みに、スポーツ等で事後の趨勢を決する重要なポイントのことを
「ここが天王山」と言いますが、この戦いが語源とされています。


天王山までの道、結構急な坂でした。
写真では判り難いですが、住宅街地とは思えない急坂で、結構きつい登りです。
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登山道の途中にある名刹「宝積寺」山門
伝わるところでは742年行基によって開山され、1232年の焼失後直ぐに再建され、
山門の両側に立つ金剛力士像(重文)は、夙に知られた東大寺南大門と同時期の作です。
天正10年の合戦時は、ここに秀吉軍の本陣が置かれました。
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寺院の裏手からこんないかにも「京都らしい」山道を登ること40分、
天王山展望台に着きました。
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天王山の展望台から見る、山崎の地形の様子。
ここを押さえられたら、戦いにならないことは、
現在を生きる私でも分かる気がします。

立木のために、広がりが今一つですが、
狭隘な山崎に対して大阪平野が開けているのがわかります。
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山崎から京都に移動し、
翌日の行動のウォーミングアップとするべく少し歩いてみました。
何しろ京都を訪れたのは40年ぶりの事ですから。

今回の京散歩は、
日本史の中で京を舞台に発生した大きな戦乱の現場を自分の足で歩き
目で見、空間を肌で感じることを目的としています。

すべてを訪ね歩くのは無理ですから、
古くは保元の乱から幕末・戊辰戦争に至る間、
戦場が集中する上京と鳥羽二つの地域に絞ってみました。

山崎を後に京都に移動、空腹でしかも中途半端な時間だったので、
京都駅地下街の店でラーメンを食べてみました。
写真は、塩とんこつです。
特に言うことはありませんが、メンマとキムチは食べ放題でした。
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≪相国寺≫

応仁の乱は京を主戦場に1467年に始まり
11年間に渡って続きますが、
その間にいくつかの大きな合戦がありました。
ここはその一つ相国寺。
関東にいると寺院の境内が主戦場と言われても今一つピンと来ませんが、
現地に来てみると寺域の広さに実感、
戦場の最前線となったことがわかります。
尚、金閣のある鹿苑寺、銀閣のある慈照寺は
どちらも相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)です。

山門
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境内の一部
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作家水上勉が幼い頃に暮らした境内の瑞春院
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《京都御所と蛤御門》

言わずと知れた京都御所。さすがに広い。
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蛤御門は御所西側にある門の一つ。
写真資料から考えていたよりも規模が小さい。
1862年の禁門の変の主戦場はここであったことから
別名を蛤御門の変と言います。
戦闘で受けた銃弾の傷がどこかにあるはずですが暗くてわかりません。
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日没となったので、ホテルで一風呂浴びてから、
改めて街中に出直し夕食です。
食の街といわれる割には、食べたいものが見当たらない街でした。
よって、行き慣れたキリンシティです。
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翌日の散歩を控え、大酒しないでビールのみで仕上げです。
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10月27日のおまけ

古典落語の名作に「大山詣り」がありますが、
横浜を出発して直後新幹線の車内から大山をはじめとする丹沢の山々前が見えました。
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以上!大将のお散歩ブログそのⅡでした。
10月29日(木)の散歩は、また後日整理して記事書いてアップとの事

本日も最後までお付き合い下さり
本当にありがとうございましたm(__)m








by kaorunchoko | 2015-11-09 19:44 | 大将 | Trackback | Comments(13)

大将の大阪・京都散歩の記 そのⅠ 2015年10月27日・28日




ちょこ家の日々を御覧頂いている皆様初めまして、
私は「大将」と呼ばれている本人です。


昔から料理は大好きで、中華を中心にそれなりにやっては来ましたが、
それはあく迄惣菜としての物、
とても他人様に見られるような代物ではありませんでした。


それがいつの間にか殆ど毎日のように皆様に見ていただき、
曲がりなりにも評価して頂けるようになったのは、
文字通り皆様から「日々」励まされてきたことに尽きます。


更には短期間で多少とは言え調理技術を向上させられたのは
皆様のおかげとしか言いようがありませんので、
この場を借りてお礼申し上げます。



さて今般、勤務先の記念行事が大阪開催となり、
群馬から大阪までの交通費(新幹線!)と
二泊分の宿泊費が社費で賄えることになったのを機会に、
記念行事のある初日の夜以外はすべて自由行動をして来ました。
これは2日間に渡る大阪と京都の散歩の記録です。


10月27日


何と!出張公演の依頼に大阪文楽座が応じてくれました。
宿泊したホテル=リッツカールトン大阪のバンケットの一角で文楽公演です。
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残念ながら公演の様子はアップ出来ませんが、こんな会場でした。
演目のメインはわかりやすさではピカイチの八百屋お七、
それもお七が火事半鐘を打ち鳴らす場面他でした。
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さて、パーティの後は恒例の二次会です。
普段参加しない二次会ですが、
今回はジビエ専門料理に行くプランがあったので、そのグループに合流しました。
写真は馬肉の刺身盛合せですが、他にもエゾシカや月の輪熊にウサギ、
各種鴨等色々あり、ワインもそこそこのものがあって中々満足いく店でした。
しかもここまでの会費は会社持ちです。
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10月28日

初日の夜、3次会に付き合わせられて3時過ぎまで飲んでいたため、
2日目の午前中は朝食後ホテルの部屋で調整していました。
13:00からサントリー山崎ディスティラリーの工場見学です。
予約してくれた同僚と二人で行きました。
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生産されたモルト原酒の数々。
色、透明感、そして勿論香りも全てが異なる特徴を持ちます。
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ポットスチルはこの工場だけで12機ありました。
スコットランドの醸造元の多くが2~6機レベルであることからすると、
やはりサントリーはビーム社を買収するほどの規模だなと感じ入った次第。
ポットスチルの形状の違いが蒸留された原酒の基本的な個性を決めます。
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この映像は誰もが見たことがありますね。
でも現場に行った時の最大の特徴は、「香り」です。
ウィスキー好きの私にとっては馨しい香りでしたが、
苦手の人は逃げ出すかもしれません。
貯蔵環境が一定になるように、定期的にすべての樽を置き換えるそうです。
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所謂、「天使の分け前」。
貯蔵を開始してから右の樽が4年、
左の樽が12年経過したものの現物です。
蒸発して減ってしまうだけでなく、
ホワイトオークの樽に由来する色の変化も大きなものがありますね。
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見学ツアー参加者特典の無料試飲会場です。が、いかんせん所詮は無料、
呑みたいモルトはありませんでした。
でも、ウィスキーをより多くの日本人に知らしめたいという、
創業者の熱意の一旦を見た気にはなりました。
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一方こちらは有料の試飲会場。
上は同僚に勧めたザ バルヴェニー21年、
下は私が購入したミドルトン「ヴェリーレア」です。
どちらもダブル相当量で、前者は900円、後者は700円。
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同じサントリーのモルトなら
私は、「山崎」より「白州」の方が好きです。

続きは次回へ









by kaorunchoko | 2015-11-03 00:44 | 大将 | Trackback | Comments(14)